2008年9月16日火曜日

ウィリアム・ケントリッジ講演会 in 同志社

たまたま、誘って貰ったので行ってみました。

1時間半の講演の間ずっと、話と作品上映に釘付け。
ウィリアム・ケントリッジ氏は、偉大な人だ、と思った。
南アフリカ在住の、映像作家。お名前を知ったのも、作品を見たのも今日が初めて。

話の内容は、かなり行き当たりばったりに、作品に即した内容。でも、率直で、知的で、論理的で、
そして、感動的だった。
通りいっぺんの平凡さが微塵もない作品と、話の内容にひたすら引っ張り込まれる。
なにより、制作への誠実さ、をありありと感じた。
私はずっと最近、「見る」ひとの側で居すぎたせいか、そういった誠実さが、分からなくなっていつのまにか踏みつけにしていたかもしれないと気付かされた。

作品は、ドローイングのコマ撮りで作った映像。
描いては消して描いては消して、痕を残しながらの情景描写を展開する。
消した痕が、眼の中の残像と重なって、より強調される。
比較的初期のドローイング映像は、この、描いて消し描いて消しという、シンプルで印象深い手法を一貫している。
最近に近くなればなる程、その手法とフィルム編集の技術とが複合されて、
制作のメカニズムが、容易には理解できないほど複雑化している。

とくに印象深かった言葉は、自分の作品に、
「自己満足以上のものが、あらわれているであろう、ということを期待している」。
ある意味、開放性の強い制作態度だと思う。
不思議な、見えないもの・自分の手に負えないものへの信頼や自信を感じる。

来年京近美で個展開催とのこと。楽しみです。



*

2008年9月10日水曜日

京都府京都文化博物館「KAZARI 日本美の情熱」


文化博物館のKAZARI展。
先月はじめころと、今日と、結局二回見に行きました。

この展示は、いろんな館の常設展を
混ぜ混ぜにして良い感じに「日本美術の流れ」を作ってみたという感じ。

個人的には、風俗図屏風が沢山出ていたので嬉しかった。
しかし、この定型化した人物描写と構図形式を見る度に、
風俗図が定型化するってどういうことなのよ、って思う。
定型化した表現を風俗描写とは言えない。
じゃあ、ここに描かれているものは何と呼べるだろう。模様みたいなものなのか。
でもそれで納得するにしては、図様がえげつない。
、、という風に頭をひねってしまう感じが、近世と現代の隔たりなのか、と思ったり。
いずれにしても、わかりそうでわからない前近代的な「風俗図屏風」が、好き。

きものが沢山出ていて、やっぱり丸紅の所蔵のきもの、いいなーと思ったり、野村正治郎の小袖屏風はやっぱり痛々しいなと思ったり。
徒然に見るばかりでしたけど、こういう感じも、常設展っぽい。

でも「かざり」って、展覧会のテーマにするにはちょっと抽象的すぎる。
「かざり」をテーマに、こんな風に品々を並べて見えてくるもの、は、
そんなに真に迫ったものではなかった。



*