2008年7月12日土曜日

東京国立博物館「対決ー巨匠たちの日本美術」

ずいぶんと駆け足で見てまわったので大事な見所が抜けてしまっているかも。
でもま、それは気にせずメモしておきます。

新出の永徳画、《松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風》を見ることができたのが良かった。
確かに確かに聚光院の《花鳥図襖》に、表現が近似している。
かさかさした筆さばきや、各々孤立して点在するモティーフ表現が。
・・・最近永徳画の新発見が多いのね。
それは何ででしょう。学問的成熟? 永徳画の良さがこのところ富みにクローズアップされてきたから?

芦雪の《海浜奇勝図屏風》(メトロポリタン美術館)は、非常に格好いい屏風絵でした。特に左隻。
2006年の「応挙と芦雪」展(奈良県立美術館)には出てなかった作品。
この造形の勢いの良さは、時代を飛び越えているんじゃないのかなあ・・。
芦雪は応挙と並べるよりも蕭白と並べた方が面白い気がする。
そして若冲は応挙と対置してみたい気がします。

展示は、各対決ごとにブースを作っていますが、「対決!!」と銘打った割にはおとなしく順々に並べている感じ。
人がかなり混み合っていたので、両者を見比べるほど見通しは良くなくて、スムーズに見て回れない。
でも画題やモティーフのちがうもの同士、土俵違いな作品同士を並べても、
ほんとに対決とはいいにくいんじゃないのかなあ。
かといって、応挙の虎と芦雪の虎を並べても仕方ない。十八番が違うんだし。

やっぱり対決と銘打ってやるからには、それぞれの最高傑作と言われる作品同士で並べるのが順当では?と思いました。
そういう意味では、各所各所で、企画と作品が一致してないもどかしさがありました。
応挙の孔雀画は絶対出すべきだったと思うし、
今回出品の宗達画と光琳画は、風神雷神はいいとしても、その他は、
なんであえてその作品を選んで並べる必要性があるのかが分からない。

ざっくり見ただけなのに生意気なことばかり云々してしまった。
でも。
見応えのあるいい作品が沢山出ていて(企画性は別としても)、十分にいい展示。




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三井記念美術館「美術の遊びとこころⅢ NIPPONの夏ー応挙・歌麿・北斎から〈きもの〉までー」

いつも思うことだけれど、三井記念美術館の企画展は上品・・・。
茶道具とか書とか拓本とか。
今回の展示の主題は「夏」。見ているだけで涼感が漂ってくる。

とりわけガラス製品の鮮やかな色味に目が吸い寄せられる。
〈色ガラス製虫籠〉(19世紀)は、総ガラスの虫かごで、こんな展示でない限り
なかなかお目にかかれないのじゃないかしら。
華奢で儚いのに、華やか。
夏の夜の縁側に置いて、月の光にキラキラ光らせて
鈴虫でも入れて鳴かせたら、どんなに涼しいことだろうな。
ほかにガラス製の簪やキセルもある。ぽっぴんは初めて見ました。

絵は、応挙の〈青楓瀑布図〉(サントリー美術館)が出ていました。
つい最近こんぴらさんでも瀑布図を見たので、続けさまで応挙の滝を見ている。
関連して、千總さんの保津川図屏風が見たいなあと、思いながら見ていました。
(そして偶然にも、次に行った東京国立博物館で出してらっしゃって、見ることが出来ました。)

クーラーはもちろん、冷蔵庫も無い時代の「夏」の風物。
よく考えてみれば、
涼しい絵を描くことやガラスの飾りものを作ること、
あらゆるお道具に涼しげな意匠を凝らすこと、衣料や家屋を工夫することに、
今、クーラーや冷蔵庫やアイスにかけているような費用や労力の全てを傾けていた、とも言えるかもしれない。
ただ単に部屋を閉め切って空気を冷やして夏を凌ぐのは、便利とはいえ詰まらないことね。
と、思ってしまうくらい、涼の風物が素敵だった。





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西村画廊「町田久美"Snow Day"」

町田久美さんという画家さんの名を知ったのは、BTで取り上げられていたのを読んだのが最初。
強く太く黒い線が、印象的でした。
今回見に行けたのが、とても嬉しい。

作品数が結構多くて、小品も含めて16点ほど。
雑誌でみた線を、間近でじっくり眺める。ムラ、途切れの無い線。おおきな抑揚も無い。
もの凄い筆圧で描くので、筆を何本も駄目にする、とかいう話が載っていましたが、
この線の強さは、なかなかお目にかかれない感じ。
人体の変化形の様々が、主要なモティーフ。
赤ちゃんのようなぷりぷりした肉感が、幾何学的な円形・球形・楕円形に落とし込まれて、
無機質なのになまなましい。

人物って、ゆっっくり丁寧にそして正確に描いていくと、
逆に非常にシュールに人間離れしていくもんじゃないかなと、思う。
町田久美さんの作品は、ちょっと気味悪い感じで、またそこが魅力なんだと思うのですが、
こういう人体の不気味さは、ちょっと応挙に似ている。「人物正写図巻」の細密な描写とか。

「恐怖の谷」の話を思い出します。
ロボットなどを作る際に、人間に似せていけば似せていくほど、
違和感は大きくなって、不気味に見えるという心理の法則。
近づけば近づくほど不気味の谷に落ち込んで行く。

町田久美さんの作品は、人体の正確な形をある意味、非常にするどく捉えていて、
そしてそれだからこそ、身震いするような不気味さを感じてしまうのだと思う。
この方の凄い(なと思う)ところは、その不気味さを表現にうまく転化して、見るものの気持ちを
自在に揺さぶってしまうところですね。


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野間記念美術館「竹内栖鳳と京都画壇」


野間記念美術館へ行くのは初めてでした。
場所は、メトロの護国寺の駅から徒歩20分ほどのところ。
静かな住宅街の中でもひときわ、うっそうと木々の茂るお庭に囲まれた館。

展示は、
竹内栖鳳・上村松園・西村五雲・橋本関雪・土田麦僊・榊原紫峰・
三木翠山・小野竹喬・徳岡神泉・伊藤小坡・菊池契月・川村曼舟・梥本一洋・
堂本印象・福田平八郎・山口華揚・上村松篁、etcと、今尾景年。

画家それぞれの画風が多様。
上村松園・西村五雲・橋本関雪・土田麦僊・榊原紫峰・三木翠山・小野竹喬・徳岡神泉、
この人たちが同じ師に就いたということを、絵を見るだけではなかなか想像できない。
それが、栖鳳という人の幅の広さなのかと思う。またそれが、近代の京都の風向なのかなとも思う。

各画家について常々感じていたことを、fumiさんに喋ってみる。
意見が一致することが多くて、感覚って共有されるんだな・・と、不思議な、嬉しい気持ち。
紫峰ってほんとバタ臭いね(でもそこがいいんだ)、とか、福田平八郎なんでこんな位置に落款?、とか。
五雲の十二ヶ月図の構図の不思議さに首を傾げたり。

栖鳳の作品は粋な小品が多い。
土田麦僊の《春》は・・大変な力作です。
写実で得た形を、決して生では使わず、いい形だけ取り出して、その形を
まるでパズルをするときのような適切さで、画面上に嵌め込んで再構成している。
絵を作る上での構想はとても意図的に練り込まれていると感じさせますが、
その作画の過程は綺麗に隠されて
最後の一番美味しい形だけが残されて完成している。という印象。
あんまりよく知らないけども、よく出来た京料理ってこういう感じなんじゃないかな・・。

「よく出来た京料理」。この展示の作品は結構みんなそういう感じがします。
自然にある物を、その綺麗さや雰囲気のいいところを残しながら、決してナマでは使わず、
薄味に仕上げてるんだけど、たっぷりのだしを含ませている。
ちょっとぬるい。味も温度も。けどそのぬるさがいわゆる「上品」で、味わっているうちにはまってしまう。


今回あらためて凄い人だと思ったのは、上村松園。十二ヶ月図の表現のキレの良さは尋常じゃない。
特に十二月、《降雪》。
古いものの形を借りているのに、こんなに新鮮な形に描けるなんて。


ここでは、すごくいい時代の、いい京都を見てきた気がします。




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2008年7月11日金曜日

オオタファインアーツ(Ota Fine Arts)「携帯電話の電源を切ったとき、絵画は雄弁に語りだす」

勝どきの、オオタファインアーツに行ってきました。
場所が・・・・わかりにくいです。特に、入り口がどこかわかんない。
一人で行っていたらたどり着くことを諦めていたかも。

なんとか会場に入れて、拝見。
出展の作家は小池真奈美さん、樫木知子さん、フィロズ・マハムドさん。

小池真奈美さんの絵ははじめて見たのだけど、ぞくぞくする怖い絵。
絵の中に登場する女の子が、次見た瞬間には首がもげていそうで怖い。
頭が体に比してとても大きいからアンバランス。黒髪のボリュームがさらにそれを増加している。
描線が細かく滲んで、全体的に輪郭はボケている。なのに、クリアな鮮やかさ。
つまり、ピントは合っているのにレンズが濡れててうまく映し出されない、みたいな。
自分の目がこんな像を映し出すようになったら、気持ち悪くて狂いそう。
絵の主題は落語から来ているのだって。
でもなんで絵の中の女の子が着ている着物は、大正末~昭和頃の銘仙とか御召なんだろ。
落語の世界にしては中途半端に古い年代設定じゃない。
でもそういう不思議感がいいのか・・。確かにレトロな懐かし感がある。


樫木知子さん。作品は3つ。
ふたつは新作で、ひとつは、3年くらい前に京都芸大の作品展で見たことのある作品でした。
新作は、とても横長もの、と、縦長のもの。

横長の分はタイトルが長い。
「土の丘 下には根 上は網の枝 枝の向こうはコウノトリ 間でひとは蟻さがし、もしくは 石ころに似せた石ころそっくりの絵を描く」。
雪崩れ落ちていくような流動的な形態感が、見ている私自身の足元にまでしのび寄ってくる。
芋虫みたいになってしまった人体が、「かなしい」と思うんだけど、そういう感じ方はおかしいのかな。
どうしてもこの絵を、無感覚で無音な地獄絵というふうに感じてしまう。
不幸な絵。
でも色の階調がきれいで、心揺さぶられる絵。



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郷さくら美術館「現代日本画の精華」

福島の郡山に行ってきまして、さくら美術館にお邪魔しました。
この館は基本的なコンセプトは、三春滝桜にやや関連づけた絵画(日本画)を
展示するということにあるよう。
所蔵品は、昭和生まれの作家ものに限っている。

展示室は8つに分かれているけれども、
企画展の部屋と三春滝桜の部屋と世界遺産の部屋を除いては、各室のテーマ設定が
具体的じゃないので、部屋毎に雰囲気がすごく変化しているというわけではなかった。

見る人の趣味に応じて、「この絵が好き」とか「あまり好きじゃない」ということはあるかも知れないけど、
基本的に上品で丁寧に描かれた作品が並んでいる。
こんなのは大嫌いだと思わせるような絵とか、目を覆いたくなるようなグロテスクな絵は無い。
粒が揃っているというか。きちんとした技術。
画題とか精神性は、少なくとも表面的には、あんまり強く感じさせないけれども、
こういう絵画は、素直に好き。
というか、ここに並んでいるような絵が大嫌いな人がいるのだとしたらそれは、
ちょっと専門にかぶれた、「突っ張った」人なのかも。

個人的には、林潤一さんの、発色の良い花の絵が良かった。
西野陽一さんの「王国」「森の家族」は、とっても幻想的で素敵。



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福島・東京(旅行)


リンクさせていただいている「或いは修羅の十億年」のfumiさんと
昨日今日で旅行に行って参りました。
初めて福島、東北に上陸して、かの土地の言葉を聞いてきました。

郡山で乗ったタクシーで
たまたまの話の流れで京都から来ましたというと、運転手さんが、ちょっと懐かしそうに、
着物(の仕事を)やっていた時よく行った・・とかおっしゃっているのを聞いたり。聞きながら、
外から見た京都ってどんなものか少し想像してみたり。
豊洲の喫茶店で朝ご飯を食べながら耳に飛び込んでくる東京風の言葉つかいとイントネーションが
とても新鮮だったり。
普段と遠く離れた場所で、見知らない土地の日常を見ることは、ほんとうに非日常なことね。
そして、旅から帰ってきたときの、急にはもとに馴染めないような妙な居心地。

展覧会を沢山見てきました。
郡山の郷さくら美術館・東京勝どきのオオタファインアーツ(Ota Fine Arts)、
護国寺の野間記念美術館・日本橋の西村画廊と三井記念美術館・東京国立博物館。
色々な作品をたくさん見て、それがいま頭の中でぐるぐる回っている。

沢山いちどに見ることの難点は、見た感想の整理を付けるのが大変なことだわ。贅沢な悩みですが・・。


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2008年7月10日木曜日

星野画廊「岡本神草〈拳の舞妓〉への軌跡展」

岡崎の星野画廊に行ってきました。岡本神草「拳の舞妓」への軌跡展。

「拳を打てる3人の舞妓」は、一番奥の壁に。
3人のうち中央の舞妓のみを描いた「拳の舞妓」(大正11)、「舞妓」(大正14頃)、
そのほか、果物や風景、花の写生や、舞妓の絵のためのスケッチ、夢二画の模写、
自筆の日記、拳の舞妓の制作予定表(大正8)。

大正9年の拳の舞妓なら、いくら浅学の私でも知っていました。
京近美で下絵とともに展示を拝見したこともある。
その近美の方の、大正9年の「舞妓」は、全体の未完成状態と異様に黒い外隈と
内側に向かって3段階の分断線で、怨念を感じるくらいの迫力があった。
白と赤と黒の濃い霧が、もやもやと立ちこめているような感じ。

その作品の前段階にあたる、何らかの理由で途中で制作をやめた、であろう作品が、
今回出されている「拳を打てる3人の舞妓」(大正8)ということで。
近美でみた9年の方の記憶と比べて柔らかい印象を受ける。人物は画面に比して大きい。

近美のと舞妓の顔が全然違う。特に向かって右。
近美の9年の方は、顎が小さくなって、
8年の方で面長な顔が9年の方では丸顔に近くなっている。
ちなみに大正10年の方の第三回帝展出品分はさらに丸顔。
もうこうなると、下絵(近美の)から随分隔たってきているのね。
構図では、9年の方が8年のに比べて左の舞妓の頭を下げて右の舞妓を上げている。
3人の顔で出来る三角形の底辺がほぼ水平になっている。
つまり、9年の方の構図は、三角形を強く連想させて構図として平面的。
8年の方は9年に比して自然な情景表現といえる。
構図と顔の表現の違いが、9年の「拳の舞妓」の図様表現を緊密にしている、
そしてまた、より神草的女性表現にしていると思った。

未だ違う、未だ違う、と、やり直しながら制作を続ける神草の姿が、見えた気がする。
近美の方も今回の展示の方も、星野画廊で探し出された作品で。
師匠が星野画廊を絶賛するのは当然なんやなあ・・。

見たものを、なかなか咀嚼しきれずにいるときに、星野さんに話しかけて頂いて、
一番大事な感想を言わずに、果物の写生が凄く、いいですね、とかなんとか言って
帰って来てしまいました。情けない。



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2008年7月9日水曜日

Oギャラリーeyes「羽部ちひろ展」

油彩で描いてらっしゃる作家さん、羽部ちひろさんの個展を拝見しました。

キャンバス画5点、小さく薄い厚みの板絵2点、
小さな厚紙に描いたもの1点(これがDMの絵だった)。
何れの作品も、ぬるぬるとした油絵具の素材感と、ゆっくり置いた筆触とが相まって、
モティーフの表現にモッタリした重みというか、量塊感・密度の高さが出ている。

絵としては、不可思議系。
ベッドの掛け布団が冬の雪山の景に化けていたり、だまし絵の系統。
でも独特なのは、幻想的に介入してくる絵柄が必ず雪山だってこと。
それも牧歌的で概念的な雪山。
何故雪山? ・・不思議な。

同じモティーフを、言わば持ちネタ、十八番として繰り返すこと。
それによって、もともとは小さな意味から出発して出てきた(かもしれないような)形が、
次第次第に、雪だるま式に、形態と内容の面白さを増加していって、もう表現には不可欠な重大性を帯びていくような。
この雪山に、そういう表現性が獲得されていく
途上の形態を感じ取ったのだけど。勘違いかしらね。



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2008年7月1日火曜日

『西の魔女が死んだ』(映画)

最近は忙しくしていて、展覧会というものに行っていない。
豊田市美のフジイフランソワの展示とか、とっても行きたかったのだけど。
やっと忙しさの波が去ったので、精神的な集中のスイッチ切るために、映画を見に行った。

映像は、文章とか音楽とか絵とか見るよりも、情報量が多い。
映画になるとさらにストーリーと音楽とその他もろもろが盛り込まれて、めくるめくような世界。
基本的に、何も考えなくなれるようになるために映画を見に行くので、
感想はいつも、「なんか分からないけど凄い良かった」。
映画に関しては批評精神が全く働かない。
そして大体いつも、何ということ無いシーンに、涙、涙。

長崎俊一監督・脚本、2008年、日本。原作は梨木香歩『西の魔女が死んだ』。
ベスト泣けたのは、「まい」の母親が運転をしながら、「あの人は本物の魔女よ」と言ったシーン。最後の方のシーンですね。

この「魔女」はきっと、最高の人間性みたいなものの代名詞みたいな扱いなんだな。
日常の中にぽっかりと浮かんでいるファンタシー、この映画では「魔女」だったけど、
確かにこういうファンタジーは、私の中にもあるなあ。
他人には正体不明の信念みたいなもの。